こんにちは。R86plusAブログの時空です。今回は僕たちの目を通して見る世界についてです。
世界は不思議だ。世界は自分ひとりの視点からしか見ることができない。他の人達もそうだが、他の人が何を見て考えているかを直接的に知ることはできない。言葉を通して間接的にしか知り得ない。
それぞれの人にはそれぞれの視点があるという意味で、世界は無数にあるといえる。自分の目から見えないものをなぜ信じられるのか。僕たちが目を閉じていると世界では一見して僕たちと関係ないことが起きている。僕たちが知り得ないことが起きているということだ。
しかし、僕たちが他の人々の頭の中をのぞき見たり、他の人が見ているものが見えたりしても、それが本当に存在するかははっきりと言えないだろう。どこまでも主観の中を生きなければならない私達は、他の人の頭の中でさえ自分の主観を通して見たら、自分の主観と思ってしまう。
ただし、感情というものは自分が存在している証の一つとは言えないだろうか。夢の中にさえ感情がある。感情さえ主観であり、痛いや熱いなどの感覚も自分の主観と言える。
一つ言えることは、一人ひとり一つの画面を有しており、その画面を通して同じ世界を見ているということだ。中にはカンニングしようとするズルい子供もいるかも知れないが、カンニングしたとして、それすらそのズルい学生にとって主観なのだ。
僕たちは改めて主観から脱することはできないのだろうか。仮に、これから色々な技術が進んでいったとしても、主観はどこまで行っても主観だ。一つの脳みそが二人の体をシェアする未来は考えづらい。
ただ、しかし、それでも地球は回っている。地球どころか銀河よりはるか遠い先まで時間が進んでいる。そのうえで、主観を脱することは可能なのか。あの有名な猫型?ロボットでさえポケットから主観を脱する道具は今後も出すことはないだろう。
そして、このような考え方の先に神様という宗教的な存在をあがめたくなる気持ちが湧いてくるのだろう。
僕は、世界を運営する神様がいてもいいと思う。あのSNSでさえ巨大IT企業が運営している。何かによって、この世界が運営されているということに関しては否定する要素は少ないだろう。
なぜなら、運営が自分たちの存在を隠そうとすれば、中の人として押し黙ってしまうのが得だからだ。人間は自分の思いもつかない壮大なことに関しては安易に神様のような答えを求めてしまう。
しかし、その複雑さを取り除いて、簡単なことから積み上げていけば、案外この世界の謎は僕たちの近いところにあるのかもしれない。
なんだか、僕の話が長くなってしまったのでこの程度にしておきたい。この話はまたの機会にできればいいと思う。ご清聴ありがとうございました。ご武運を!!時空。
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